降誕前節第8主日(11月1日)聖徒の日礼拝説教より
『涙を流されるイエス』 寺島 謙牧師
新約聖書ヨハネによる福音書11章28~37節
ラザロの物語です。ラザロは,主イエスが愛されたマルタとマリアという姉妹の弟でしたが,病に羅って死にました。その場にいなかった主が,自らこれを知り給い,姉妹の許を訪ねられたのです。マルタとマリアに会われた時,ラザロが死んで墓に埋葬されてから,すでに四日経っていました。姉のマルタは,主イエスを出迎えに出かけましたが,マリアはそれが出来ず,家の中に座っていました。マリアは,愛する弟の死に激しく打ちひしがれて,そこから解放されないまま,動けなかったのです。これが,愛する者を,死によって失った人間の姿でありましょう。
28節には,マルタは主イエスよりも先に家に帰り,「先生がいらして,あなたをお呼びですゎ」とマリアに耳打ちした,とあります。耳打ちした,ということには意味があります。主イエスは,マリアという-一人の人間に向かって,「私の所に来なさい」と招かれたのです。マルタもこのことを知って,誰にも聞こえないように,そっと耳打ちしたのです。主イエスが,あなたを呼んでおられると。マリアはこれを聞き,すぐに立ち上がってイエスのもとに行きました。主イエスがこの時、村に入らずに,マルタに迎えられた所にとどまって居られ,そこにマリアを呼びよせたことにも,大切な意味がありそうです。愛する者の死によって立ち上がる力を失ってしまった人間マリアを,そこから立ち上がらせて解放するためであったと思われます。マリアは立ち上がりました。死の力に捕らわれて、泣くことしか出来ない人間が,キリストの呼ぶ声によって,立ち上がる力を与えられたのです。「先生がいらして」という言葉には,「傍らに立つ」という意味もあるのです。主イエスは,マリアの傍らに立って,彼女を助け起こされたのです。主は,私共の傍らにも立って呼んで下さるのです。
マリアは主に会うなり,足もとにひれ伏して「主よ,もしここにいて下さいましたら,わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。愛する者を失った時の,切実な叫びです。何故ですか,どうしてですか。
では,我々はどうすれば救われるのでしょうか。神によらなければ,我々に救いはありません。主イエスは,彼女と共に人々が嘆き悲しんでいるのを見て,興奮し,憤り,涙を流された,とあります。神の御子が悲しむ者の傍らに立って,共に自ら苦しみ,痛みを分かち給うのです。キリストは,「涙を流されたjのです。この愛の結実が,十字架上の贖罪の死であります。私共罪人を救うために,十字架上で死んで下さった,主イエス・キリストの愛であります。主は常に,悩み苦しんで泣く者を,そこから呼び出して招いて下さっておられるのです。この事実を,私共は人々に伝える歩みを続けたいものです。(磯村滋宏)