「主が来られる時まで」
10月6日礼拝説教 寺島謙牧師
コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章23 ~26節
初代教会以来、教会は聖餐を中心に据えて歩んできた。聖餐は、主イエスが弟子達と取られた「最後の晩餐」をモデルにしているが、ぞの原型となったのは、イスラエルが出エジプトを成し遂げる切っ掛けとなった過越の食事である。過ぎ超しの食事のために屠られた子羊の血を家々の扉に塗りつけておくことによって、イスラエルは手中の裁きを免れた。子羊の犠牲は、神の子羊である主イエスの十字架を予見している。この血によって、神は人間の罪を赦し贖われたのである。聖餐は、イエス・キリストの十字架の犠牲を思い起こすための食事であり、信じる者の信仰を養い生かす魂の糧である。パウロは聖餐について、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と告げた。パウロは直接主から聖餐を頂いたのではない。だが主は今も教会において、「これはあなたがたのためのわたしの体である。この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われて、私達の命を生かしておられるのだと教えている。そして教会は、主が来られるその時まで、聖餐に与りつつ、キリストの十字架に湛えられている神の愛を宣べ伝えて歩むのである。