小学校二年生の時、日曜学校に行った。開拓伝道で松山に来られた万代牧師の教会だった。伝道集会で救われた母の勧めだった。休まず通った。休むと母に叱られた。
日曜学校で聞く聖書のお話は、今でも、好きだった女性の先生の顔と一緒に思い出す。
素直だったのか? その時から、神様は私にとって「在りて在るもの」だった。中学生になっても休まず通った。
中学二年生の時、何のためらいもなく、当たり前のように洗礼を受けた。真夏の日、教会キャンプの最中に、中島姫ケ浜海岸で受洗した。
高校生になると、土曜日毎に土曜学校を開くため、森松までひとりで、紙芝居やペープサートを持って出かけた。
高校三年生の時、皆が大学へ行く時代でもなかったし、勉強もできなかった私は就職を選んだ。いわゆる戦後のベビーブームに生まれた私の時代は、人数も多く、就職難だった。それなりの会社には学校推薦さえしてもらえず、まあまあの会社は落ちた。
だんだんと私の心は荒んでいった。何もかもが嫌だった。かといって就職しないという選択肢もなかった。暗黒のように思われた日々の中で、私はイエス様と出会った。イエス様は私のどん底を見てくださっていた。
神のみ心に添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる。悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うた悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起こさせたことか。コリント第二 七章十一~十二節口語訳
このみことばが私を救ってくれた。
知人の紹介で、小さな会社に就職した。紆余曲折はあったがその会社の三男と結婚した。
最近、夫と話すことがある。「今までこの年になるまで誰にも伝道できなかったけれど、まちがいなくひとりは導いたよね。それはあなたよ。」「うん、まちがいないな。」
結婚してしばらくして、事情があって、生まれ育った(町の)教会から松山城東教会へ転会した。クリスチャンとしての歩みの中で、本当につらい時期を過ごした。
結婚してからも苦労はあったが、私の両親と同居していたので、楽をしたと思っている。そのツケは後に回ってくるのだが。
長女が中学生になって荒れた。いわゆる非行に走った。毎晩のように帰ってこない長女を探して、夫は夜の街を走り回った。長女をつれて死のうと思ったことは一度や二度ではなかった。その長女も今は三人のよき母である。
どんなどん底の時にも必ずイエス様の御手が支えてくださった。商売の苦労も並大抵ではないが、祈りつつ今に至っている。いつでも見えざる神の助けがそこにあった。苦しみにあったことは私にとって幸いなことでした。本当にそう思う。あと何年生かせてもらえるのだろう。そんなことを考える毎日だが、すべて神様に委ねて歩んでいきたい。