旧約聖書は,我々が日頃読みなれている新約聖書と強い結び付きがある書物で,前者はユダヤ民族が長く待ち望んでいた救い主が,必ず来るという旧約を述べたもので,後者はその救い主が確かに来り給い,救いの業を成就し給うた事を告げ知らせるものです。第2イザヤと呼ばれる無名の預言者に示された,このイザヤ書53章は,来たるべき救い主が,どんな人格であるかを,既に明らかに述べているのです。
そこに書かれている救い主は,現代社会が祝う華やかな明るいクリスマスとは,およそ相容れない暗い姿で示されています。苦難の僕としての姿です。常識では考えられない救い主の姿です。現に聖書自体に,「誰が信じ得ようか。」と善かれています。この時代のユダヤの民が待ち望んだ救い主は,バビロニアという強国に捕囚された多くの人々を実際に解放し,強い祖国を再建する強い英雄であったでしょう。しかし,預言者を通して示されたのは,「見るべき面影はなく,輝かしい風格も,好ましい容姿もない」,「軽蔑され,見捨てられ」た存在でした。全く力のないメシアでした。しかし,この章の後半には,この信じ難い事柄の内に秘められた真実が,明らかに示されています。メシアは,わたしたちの罪,病,痛みを,その一身に受け,わたしたちに代って苦しみ,砕かれたのだと。そして,わたしたちは,メシアが受けた傷によって癒されたのだと。本当に信じ難いことであります。そしてこれが真実であることを,後の新約聖書全体が証明していることを,我々は知っています。
先日読んだ,ある牧師の説教の中で語られた話です。志賀のサナトリウムで,翌日退院予定の人の送別会が開かれましたが,その人は次の日に,自死してしまった,との事です。この牧師は,「病が癒された人間が自死するという,人間の深層に触れた思いがする」という意味のことを述懐されています。人間の苦悩と困窮には,他から推し量り難いものがあります。このような我々人間に代って,その苦しみを担われたのが,主イエス・キリストであり,正に,主の十字架であります。4節には,これが明らかに示されています。「彼が担ったのはわたしたちの病,彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。
最近,社会一般にしばしば使われる言葉に,「我々は生かされているのだ」という言葉があります。信仰を持たない人々も,これをよく使います。これは勿論正しいのですが,誰によって生かされているのかを,はっきりと知ってこの言葉を使えるのは,信仰をもっている人だけです。神の御独り子,主イエス・キリストは,日毎私達に寄り添い,私達の苦しみを共に負い,私達を生かして下さっているのです。クリスマスは,赦されざる者が赦しを与えられた,恵みの時なのです。